2012年3月14日水曜日

ルガンスキー 【ショパン:ピアノソナタ第3番&スケルツォ第4番&幻想曲 その他】



【収録曲】
ピアノソナタ・第3番、ロ短調 Op.58
幻想即興曲
前奏曲、嬰ハ短調 Op.45
スケルツォ・第4番、ホ長調 Op.54
ワルツ・第7番、嬰ハ短調 Op.64-2
夜想曲・第4番、ヘ長調 Op.15-1
幻想曲、ヘ短調 Op.49


 今回はロシアン・ピアニズムの保守本流(?)を受け継ぐ奏者であり、現代屈指の技巧派としても知られるニコライ・ルガンスキーのショパン作品集を取り上げます。


◆ピアノソナタ第3番

第1楽章
 ルガンスキーの演奏するラフマニノフやプロコフィエフを聴かれた事のある方は分かると思いますが、その辺の奏者が必死になって演奏するような分厚い和音も彼は余裕綽々で均一に鳴らす事が出来、ソレが強力な武器の一つとなっていますが、この曲の第一主題の冒頭では和音の掴みが最近取り上げたアムラン盤と同等かそれ以上に甘く、非常に不満を感じます。
少し先の四度重音下降の箇所、0:46~【この箇所~】の少しクレッシェンド(だんだん強く)していく表現、程好い明瞭さ、スムーズさは余裕すら感じさせます。その直後の右手で二声を受け持つ箇所、0:54~【この箇所~】ですが
下の声部(上に添付した楽譜の水色で繋いだ声部)を殆ど聴こえない位の音量から少しずつクレッシェンドさせていますが、二声をしっかりと認識して丁寧にコントロールをしてはいるものの、どこと無く取って付けた様な表現に感じられます。ルガンスキーは基本的にこの手の小細工と言うか、さり気ない表現が極めて不器用に思えます。
更に少し進んだ右手内声で16分音符の細かい動きが続く1:13~【この箇所~】の箇所では
少し安全運転気味な気はするものの、一番上の声部、16分音符の細かい動き、バスの表現が的確に行われており、中でも一番上の声部の休符の表現が極めてしっかりと表現されていて、書道で言うと「とめ・はね」がキッチリとした楷書的な感じの表現と言えます。

 実はこの様な細部の丁寧な表現が本CDの特徴であり、最初に指摘した和音の掴みの甘い箇所の他にも、例えば提示部の最後辺りの3:55~【この辺り】からの右手内声の二拍目「ミ」の音が16分音符分くらい遅れて発音されるなど
詰めの甘さが見られる箇所も少しあるものの、基本的には通常見逃されるような細かな休符などを丁寧に汲み取って表現しています。具体的に数箇所挙げますと、上記の少し前の箇所、3:31【この辺り】の箇所の休符も
非常にハッキリ表現していますし(添付音源も表現していますが、それより分りやすく表現しています。興味のある方は他の奏者の場合はどうなのかを手持ちの音源やYoutubeなどでチェックしてみて下さい)、もう少し先に再び登場する四度重音フレーズ、6:05~【この箇所~】の途中にある休符の表現もスルーする奏者が多い中で
かなり健闘して表現しています。

なお、提示部の繰り返しは行っておりません(ちなみに、添付した音源も行っていません)。


【第2楽章】
 前述した様な細部の丁寧な表現はこの楽章でも見られます。例えば、急速部の左手のフレーズですが
休符の表現が疎かになったり左手のフレーズが流れがちになる奏者が多い中で、ルガンスキーは極めて的確かつ明瞭な表現を行っており、余りにカチッとしすぎて機械的にすら感じられるほどです。さらに急速部の最後、0:28~など【この箇所~など】にあるアクセント記号の表現も
丁寧にサラッと行っています。
 ちなみに、右手の急速なパッセージは苦も無く余裕で弾ききっています(当然ですが)。


【第3楽章】
 さて、第1楽章の第二主題【この箇所~】や、第2楽章の中間部の緩徐部分【この箇所~】でも聴く事ができますが、ルガンスキーは基本的に緩徐部分の歌い回しの表現が大福餅にハチミツをかけたようなクドさと言うか、端的に言ってしまうと歌い回しがヘタクソであり、しかも、ヘタクソな癖に緩徐部分でのこの手の表現がとても好きそうなので余計にタチが悪く、その手の箇所に差し掛かるとココゾとばかりにテンポを落としてグッとタメを作ったりします。この点は私がルガンスキー最大の弱点と思っている部分であり、最近かなりピアニズムが変化してきたルガンスキーの中でも全く変わらない部分と言うか、むしろどんどん酷くなってきているようにすら思える所です。
実は、第1楽章の所で挙げた内声の発音が遅れるあの部分を最初に聴いた時は「いつもの余計なルバートの一環ではないのか?」と勘繰ってしまったほどだったりします(今でも少しそう思っているんですが)。

で、この比較的長い緩徐楽章では例によってそんな表現が延々と続くのでウンザリさせられ、冗談抜きで最終楽章に早送りしたくなる衝動に駆られます。

※注以前から言っていますが、歌い回しは「楽譜通りに発音されているか」や「響きが濁っていないか」などの点と違って客観的な基準が曖昧と言うか、はっきり言って個々人の好みの問題であり、当然の事ながらルガンスキーの歌い回しがピッタリとハマる方もいらっしゃる訳で、ココでは「私にはルガンスキーの歌い回しがイマイチ合わない」と書くべきですが、余りに酷いのであえて上記のように書きました。


【第4楽章】
この楽章の序奏は大抵の場合、「」の指示を重視してかなり勢い良く始めるか、「cresc.」の指示を重視して弱音からドンドン盛り上げていくかの二通りのパターンに分かれるんですが、ルガンスキーは後者を選択しています。一つ気になるのは音の区切り方で、下に添付した楽譜に示したような音の区切り方をしており
少し違和感があります。
 さて、コレまでに何度も指摘した通常は見落としがちな休符の表現ですが、ルガンスキーはこの楽章でも的確にこなしています。例えば、この楽章で何度も登場するキメのフレーズの0:56~【この箇所~】の休符は表現しない奏者が案外少なく無いですが、
ルガンスキーはシッカリと表現しています。

 さて、恐らくルガンスキーの若い頃の録音(ラフマニノフの「音の絵」など)を聴かれた事のある方、特に、それらの録音がお好きな方ほど、この楽章や第二楽章の急速部のテンポ設定には違和感を覚えると思います。
何故なら、過去の録音、特に急速調の曲での速めのテンポ設定とそれによってもたらされる強烈なドライブ感を期待すると少し肩透かしを食らうと言うか、もう一段のテンポアップや楽章の後半での怒涛の攻めを期待してしまうと思うからです(この演奏でも一般的なレヴェルから見ると決して遅いテンポでは無いんですが)。
 しかし、現在の彼のピアニズムは、若い頃のように自身の尋常ではない指回りの良さを駆使(正確には「依存」)して深すぎるペダリングによって細部を多少犠牲にしてでも勢いを最重要視していた頃のものとは明らかに異なっており、よりコントロール重視の丁寧なアプローチを選択しているようです。
実際問題として、例えば、少し複雑そうな1:33から【この箇所~】の右手フレーズ
の安定感や強弱表現、アクセントの付け方、明瞭なフレーズ感などを見ても右手の指回りには余裕が感じられ、テンポやアグレッシブさの点で本CDにおける演奏よりももっと果敢な攻めは可能だと思われますが、最後のロンド主題・3:34~【この箇所~】やその後のコーダ【この箇所~】での慎重な表現を聴いても分るように、始終慌てることなく響きやバスのコントロールや前述したような楽譜の細かな箇所の汲み取り、丁寧な強弱表現などを主眼において演奏しています。


上記のルガンスキーのピアニズムの変化に対しては結構評価が分かれているようで、「近年グッと説得力や表現力が増してきた」と評価する方がいる一方で、「昔のような常軌を逸した怒涛の推進力が無くなった」とガッカリされる方もいるようです。
 個人的な感想としてはどちらとも言えないって感じで(※注・長くなりましたので残りの曲に少し触れつつ、そろそろまとめに入ります…)、これまで何度も触れてきたように、楽譜の細かな箇所を汲み取って表現する事自体は良いと思うんですが、前述したソナタ3番・最終楽章の序奏のようにその表現の仕方がいまいち不器用でどこか取ってつけた様な感じである事は否めません。他の収録曲でも、例えば幻想即興曲の緩徐部分の1:06【この辺り】などのアクセント記号の付いた音の強調の仕方が少し大袈裟なんですが、
大袈裟と言ってもカツァリスやプレトニョフのような斜に構えた強調の仕方でもなくてどちらかと言うと「この音にアクセントが付いてるのでとりあえず強調してみました」的なちょっと無粋とも言える強調の仕方に感じます。
 また、昔の様な弾き急ぎが少なくなった事によって、昔であればサラッと通り過ぎていたと思われるような箇所、例えばスケルツォ第4番の1:53からなどの箇所【この箇所~など】でも、速いパッセージ部分には十二分に余裕はあるものの全体的にかなり大らかに歌い上げるなど、昔よりも歌い回しのクドさがより多くの場所で見受けられる結果となり(先入観?)、個人的には非常に腹立たしい思いではあります。

実はこの第4番には旧録があったらしく、幸いにも上記の箇所が試聴出来たので比較してみたところ、旧録は各フレーズの始めと終わりこそルバートしていましたが途中はほぼインテンポでした。それに対してこの新録は全体的に大らかな揺れが微妙に見られるほか、強弱表現や左手の表現も旧録より少し表情過多のような気がしました。そして同じアルバムに幻想曲の旧録もあったので試聴してみましたが、やはり(?)新録の方が左手が雄弁で、全体的にも何やら意味ありげな歌い回しが聴けるんですが空回り気味の様な気もします。



 結論としては、昔のような勢い重視による荒さは殆ど見られず全体としては非常によく考えられた丁寧な演奏ではあります。しかし、元々ルガンスキーは曲ごと、またはフレーズごとに多彩な表現を使い分けられるような器用な奏者ではないだけに、曲中の細かな箇所を片っ端から丁寧に表現をする事が、かえってその表現自体の不器用さや歌い回しの下手さを強調する結果となってしまった様に思えてなりません。

ただ、昔ならばスッ飛ばしていたであろう細かい箇所もキッチリとコントロールしていて、単純に技術的な点においてはむしろ困難な方向へ手を出しています。
どこかで上手くバランスがとれればより進化するような気がしないでもないんですが。



なお、ルガンスキーの歌い回しがどストライクな方はこのCDに大満足されると思います。





【採点】
◆技巧=91.5~88
◆個性、アクの強さ=当然ですが、100
◆「この歌い回しはどうにかならんの?」度=1000

2012年3月4日日曜日

横山幸雄 【ショパン:練習曲集】




 さて、皆さんも一度や二度は見聞きにした事があると思いますが、演奏に対する批評において時折この様なお約束フレーズを見かけます。曰く
確かに上手いが、技巧ばっかりで中身が無い
指が速く正確に動けば良いってものじゃない

さらに、上記の様な意見から派生して、技巧的な演奏が好きなリスナーに対して次の様なツッコミ、疑問が投げかけられる事もあるようです。

そんなに正確な演奏が好きなら、打ち込みによる演奏を聴いていれば良いんじゃないの?

言いたい事は分らなくも無いです。 し か し 、です。

 例えば、人間がどれだけ速く走っても時速40㎞程度しか出せず、スピードに乗った中古の原付にすら追いつけないと言う事実は誰もが知っています。しかし、原付の走る姿をガッツリ見る人は余りいないと思いますが、オリンピックの100m走は多くの人々が固唾を呑んで見守ります。
 この様に、人類の持つ能力の限界への挑戦は多くの人々の興味をかき立てる事であります。この事はスポーツに限らず音楽の世界でも同じで、例えば、昔から「世界一の技巧を持つピアニストは誰か?」と言う議論が一部からの「世界一がドウコウって、お前は小学生かよ」と言った真っ当な意見を物ともせずに世間の耳目を集めながら今もされ続けている事もその証左と言えるでしょう。

 そんな中でポリーニが颯爽と登場してDGから「ペトルーシュカ」や「ショパン・練習曲全集」などの録音で圧倒的なインパクトを与え、後のピアニストの高い壁となって立ちはだかったまま現在に至っています。これらの曲の録音を聴く際に、特に技巧面においてポリーニ盤より優れているかどうかが一つの聴き所になっている方も多いのではないでしょうか?(ココで言う”技巧”とは、楽譜に書かれている音符を正確に発音させると言う意味です)
しかし、色々な録音を聴けば聴くほどポリーニDG盤の凄さを再認識させるだけの結果となる場合が多い事は、多くの方達が経験されていると思います。



 前置きが長くなりましたが、「楽譜に書かれた音をどれだけ正確かつ明瞭に発音させているか」と言う点で、明らかにポリーニDG盤を上回る録音がこの録音です。









                          以上




【採点】
◆技巧=お察し下さい
◆個性、アクの強さ=色んな意味で100
◆「”指さえ回れば良い”そんな風に考えてた時期が俺にも…」度=400